【御詠歌】
山路来て 参るもうれし この寺へ
薬師如来は いつもかわらじ
【豊臣秀吉の外護】
岡山県の北部、鳥取県境に近い蒜山高原に位置する。蒜山といえば、東から上蒜山・中蒜山・下蒜山の三座が優美な稜線を描く。
蒜山にはじめて来たのは、「土と太陽の祭り」に参加したときである。祭主も魂を天に還して久しいが、天の真井(閼伽水)をそそぎ、天を焦がす祭典は勇壮であった。
福王寺の由来は、およそ次のように記す。
延喜三年(903)菅原道真公が太宰府で客死したあと、道真公の随僧・弥宗が薬師仏を奉持して当地に一宇を建立、生誕地の福王子にちなみ、福王寺と号したのが創まりと伝う。
平安時代、当所は京都仁和寺領であった。
ときに弥宗も仁和寺の僧であった。これが幸いした。やがて浄財夫役は盛んになり、寺門はつとに熾盛して隆盛をきわめた。
その後、応仁の乱(1467~)が起こると 、都を避けた公家たちが当地に流寓した。戦国時代の天下騒乱にあっても、当寺は辛うじて法灯を護持してきたという。
最も栄えたのが、豊臣秀吉の代である。
その様子を、口碑は次のように伝えている。
宇喜多秀家の室・お豪方の静養所として 白羽の矢がたった。古刹とは云い乍、長い年月、 戦乱をくぐり抜けて、荒廃していた寺院が、ときの天下の権力者である秀吉や北の政所の心憎いまでの配慮と、夫秀家のお豪にそそいだ愛情は、堂塔伽藍の面目を一新した。
お豪の方は、前田利家の四女、豊臣秀吉の養女である。この地に隠栖して、大宮踊りの振り付けなどもしたという伝説がある。
【栄枯盛衰を経て】
秀吉の没後、江戸幕府を開いた徳川家康は、大坂方を容赦なく排除した。寛永年間(1624~1644)子の郷にも魔の手が延びて、福王寺は有無を言わさず取り壊された。
理由は、住職の妻帯にあったとか。確かに昔は僧侶の妻帯を禁じていたが、例えば弘法大師の御遺告には「修行の邪魔になるので、女性は近づけないように」と諭すだけで、禁止とは言っていない。
明和四年(1767)文書には、詮議はきわめて厳しく、寺院・仏像・古文書などを悉く焼き払ったという。
その間、神式による葬祭が営まれて、檀家衆は離散した。この中には黒住教の祖・黒住宗忠も含まれる。明和五年、ようやく再建は許されたが、神職との確執は激化して、寛政八年(1798)本堂を建立するに留まった。
本堂は茅葺きの宝形造り、格天井に花鳥風月を描く。筆者は三枚丈右衛門、俳号を渓雲亭覧水、鳥取県三朝の住民で、安田覧水ともいう。
本尊の薬師如来像は、座高28センチ、秘仏で三十三年ごとに開扉する。この像は、菅原道真公が大宰府に左遷のみぎり、宇多天皇より下賜せられたことが口碑に見える。この他に、護摩堂と大師堂がある。
一隅にある五輪塔群は、鎌倉時代から江戸初期の作塔である。大師堂のそばにあるのがお豪の墓で、寛永十八年(1641)八月十八日歿と刻銘。心○(竹かんむりになべぶたに山)情閑禅定尼と諱する。江戸初期に遭った被害は、お豪の方がキリシタンであったためという。
明治維新を迎えて、世情は廃仏毀釈の嵐に曝されたが、法灯は赫々として、一千年の歴史をいまに伝えている。