【御詠歌】
陽の道と 法をむすびし 恩徳寺
神も仏も はちすのみやま
【秘仏・薬師如来坐像】
岡山市街の東、操山の麓に位置する。正しくは、沢田山恩徳寺西方院という。
本尊に薬師如来坐像をまつる。説に行基菩薩作とするが、昭和九年(1934)に開扉して以来の秘仏である。寺伝には、およそ次のように記す。
奈良時代の天平勝宝二年(750)行基菩薩が草庵をむすび、自ら彫刻した等身大の薬師如来像をまつり、のち報恩大師によって備前四十八カ寺の一つに加えられたという。
山内には、西方院・池松院・多聞坊・薬師坊があった。また少し離れて医王院、光明院、竪巌神社があったが医王院は寛文六年(1666)岡山藩による寺院淘汰によって廃寺となった
嘉永五年(1852)仁王門を残して西方院を焼失間もなく再建したが、明治四年(1871)に多聞坊と薬師坊を、明治三十八年(1905)に光明院を廃止、池松院を西方院に合併。竪巌神社は明治初年の神仏分離に際して、寺内に移転して現在に至る。
現存する主な建物は、明治四年に建築した客殿と庫裡、同十年の本堂、および大師堂・鐘楼・観禅堂・山門などである。本堂の天井には、彩色画と方二メートルの大きな方位盤(東西南北)がある。
この他に、本堂の右手奥に金祐大権現・七福神社などがあり、なかでも本堂うしろの高台に堅巌最上稲荷をまつる。
【報恩大師の備前四十八ヵ寺】
報恩大師は備前の人、奈良時代の高僧である。備前に四十八ヵ寺を建てて仏国土を成したほか、天平勝宝四年(752)大和に小島寺を開き、坂上田村麻呂将軍の帰依を篤くした。
ときに僧延鎮が京都に清水寺を建立したのも、報恩大師とは師弟の間柄であったのが幸いしたという。延暦十四年(795)小島寺で遷化す。
文禄四年(1595)備前四十八ヵ寺領、ならびに分国中大社領目録(金山寺文書)には、沢田寺と記して寺領三十石を付す。はじめは沢田寺と地名を用いたが、まもなく恩徳寺の寺号を使うようになった。思うに寺号は、報恩大師の徳に報いるためか、あるいは『恩徳和讃』に、
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
とある。
竪巖稲荷は、最上稲荷の本地堂である。
最上は、神位が最上位という意味である。近年に衰退して所を変えたが、備前国の稲荷詣りといえば、昔は竪巖神社がもっぱらであった。
往古は、操山の北方に明禅寺城があった。永禄九年(1566)備中高松城主・三村家親を討った亀山城主・宇喜多直家が、家親の子・元親勢の反撃に備えて築城したと伝う。
山門は、控柱が本柱の前後に各四本、計八本ある。俗に楼門ともいう。これに高欄つきの回縁を付す。堂々とした構えである。
本堂は寄棟造り。大棟・隅棟や稚児棟に池田家の紋を飾るのが特徴。濡縁の天井に方位盤・指針・太陽・昇り龍・下り龍・十二支の彩色画を描く。神仏混淆の稀な道場である。
操山のふもとに、本坊・不動堂・奥寺大師堂をめぐる回峰行場がある。これをめぐる行者には、遍路衣装が貸与される。ときには信仰を通して、大自然に親しむのもよいだろう。