【御詠歌】
天平の 瑠璃の光は 永久に
国分け護る 周防の御寺
【周防国分寺】
周防国分寺は、多数の文化財を保存した極めて歴史的価値の高い古刹である。北に多々良山を負い、南には防府市街をとおして三田尻湾を望む景勝の地にそびえ立つ大伽藍は、創建当初の地にあり、国分寺の堂塔の偉容を表している。
当時は、金光明四天王護国之寺又は金光明寺など、いろいろな寺号があったが、後に浄瑠璃山国分寺と称せられるようになった。奈良時代の天平十三年(741)聖武天皇の勅願によって、国家の鎮護と国民の景福を祈願するために国ごとに建立された由緒ある官寺の一つである。本寺が創建された奈良時代は、わが国律令政治の栄えた時で、国分寺は宗教によって国家を統治する勅願所で、皇室との因縁が特別に深く、往昔の規模が壮大であったことは、その寺域の面積が六十一町歩余りにまたがり、七堂伽藍と二十五ケ寺の塔頭と末寺を擁していたことでもうかがえる。後世、寺領の減少や維新後の寺院制度の変革等により、その規模は縮小され、現在では、往時の遺構遺跡と建造物の一部を残すのみになったが、今なお仁王門をくぐると荘重な大金堂がある。ここには多数の国宝的仏像が安置されており、他の歴史的文化財とともに宗教上、学術上の一大宝庫をなしており、旧態を現存することにおいては、全国国分寺中極めて稀である。本尊は創建当初丈六の釈迦如来であったが、奈良時代の終わり頃から平安初期には薬師如来に替わっている。
寺格は現在高野山真言宗に属する別格本山である。
本寺がこうして旧格を維持し、歴史の各時代にまたがる豊富な霊仏至宝を保存してきたことは、実に聖武天皇の聖徳と歴代天皇の信仰の賜であり、また周防国府の力や大内氏、毛利氏の歴代国主の崇仏保護が非常に厚かったからである。
多数ある寺宝の中で後奈良天皇宸筆般若心経及び金堂、並びに堂内の薬師如来、日光・月光菩薩立像、四天王立像及び持仏堂内の阿弥陀如来坐像など、八躯が国の重要文化財にしていされ、国分寺旧境内は史跡に指定されている。
【本尊 薬師如来坐像(在金堂)】
全国の国分寺の本尊は、創建当初釈迦如来であったが、奈良時代の終わり頃から平安初期に薬師如来に替わっている。周防国分寺も創建当初は釈迦如来であったが、国分寺の国家鎮護と人々の慶福を祈願するという趣旨から、早い時期に薬師如来に替わっている。しかし、室町時代(1417)の火災で焼失している。現在の薬師如来は室町時代(1421)に大内盛見によって造られたものである。また、1417年の火災のときに時の住職仙秀宝憲が薬師如来の仏手を持ち出し、現在の本尊の胎内に収めたと寺伝で言い伝えられてきたが、平成九年の金堂の解体修理の為の仏像移動で、胎内から出てきた。その他に、薬壺の中に、五穀・丁子・菖蒲根・朝鮮人参など十七種類の薬と、五輪塔が納めてあった。
坐高218センチ 檜材 寄木造り(重要文化財)