安国寺(臨済宗南禅寺派)

〒690-0023 島根県松江市竹矢町933

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【御詠歌】

 

 

 

【奈良時代創建の古刹】

 山陰の年、松江市を象徴するのが「水の都」である。西に宍道湖、東に中海を控えた風土は、かつて松平藩十八万石の城下町として栄えた。

 この古き良き日本の姿を愛したのが、英国人のらふかでぃオ・ハーンである。明治二十三年に来日、松江藩士の娘・小泉節子と結婚して、日本の印象記を世界に知らしめた。日本名を小泉八雲という。

 安国寺は、中海に近い集落にある。

 安国寺といえば、室町時代に足利尊氏が制を設けて建立した諸国安穏の寺であるが、松江市史にその歴史をとどめないのも頷けない。

 寺史は次のように伝えている。

 開基は足利尊氏公、高叟円尊和尚。境内には、本堂、庫裏、鐘楼門、西門、弁財天、秋葉権現、妙見菩薩をまつる堂宇、松江藩主京極忠高公の父高次公の供養塔などがある。

 本堂には、十一面観世音菩薩像を本尊にまつり、出雲国分寺に安置していた薬師如来像、子安地蔵菩薩像、そして開基足利尊氏公木像、開山高叟円尊和尚木像などを合祀している。

 創建は、宝亀四年(773)光仁天皇の勅命により創建、宝亀山円通寺と称していた。その後、康永四年(1345)時の征夷大将軍足利尊氏によって、全国に一国一寺塔を建立し、国家安全の祈祷所を設けることから、この願いを光厳天皇の勅許を得て、ここ出雲国では円通寺をもって安国寺と改称、これにあてたものである。

 安国寺となった当時は、七堂伽藍を有し料所は三千石の領地であったとされているが、その後の戦乱の兵火による伽藍の焼失と時運の衰退などを経て、元亀、天正年間(1573~1592)には、立翁広本禅師が中興して二十二の塔頭を建立した。

 明治時代になって、学制が制定され、明治七年十月、安国寺本堂において「竹矢小学校」が開校された。以降、明治・大正時代の無住時代に数多の寺宝などが散逸、また戦後境内内外には寂れた感があったが、近時諸堂伽藍はもとより、境内内外も逐次整備され、隆盛の往時がしのばれる。

 

【希な十一面観音坐像】

 山号は、宝亀の年号にちなむ。光仁天皇の御代に肥後国葦北、益城両部より白亀が献上された。これを大瑞として改元された。出典じゃ、礼記「青黒緑者、天子之宝亀也」による。

 この時代、法王の道鏡が絶対的な権力を持っていたが、称徳天皇が崩御されると群臣は遺詔を奉り、白壁王を皇太子に立てて道鏡を造下野薬師寺別当に左遷。和気清麻呂を召還して綱紀の粛正を図った。

 本尊の十一面観音菩薩坐像も希である。坐像では、京都の法金剛院にまつる像が有名であるが、この像は天保二年(1831)に造立した。

 薬師如来立像は、出雲国分寺の本尊であった。また子安地蔵菩薩立像も、國分寺の地蔵堂に安置してあったのを、天明(1781~1789)のころに当寺に遷座したという。いずれも平安時代の秀作である。

 本堂は、享保年間(1716~1736)再建。鐘楼門は明和二年(1765)建築であるが、昭和四十八年に修復、併せて第二次大戦に供出した梵鐘も再鋳した。境内社に、享保五年(1720)勧請の弁財堂と、寛政九年(1797)勧請した秋葉堂・北辰堂(妙見菩薩堂)の他に、京極高次公の供養塔・織部灯篭などがある。 


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