東福院(高野山真言宗)

〒720-2121 広島県福山市神辺町字湯野1663

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【御詠歌】

あらとうと めぐみもふかき ゆのやくし

じうにのねがい あらたなりけり 

 

【聖徳太子の開いた湯薬師】

 神辺町といえば、広島県下でも珍しい一郡一町であった行政区である。山陽道の宿駅として発展したところで、江戸時代に参勤交代の諸侯が投宿した神辺本陣が、今も街中にその姿をとどめる。

 東福院は、町域を流れる高屋川の北方台地に位置する。『湯野村誌』にはおよそ次のように記す。

 説に、用明天皇二年(587)とする。聖徳太子が法駕をこの地にとどめられ、自ら薬師如来像を彫刻し給いて、虎睡山の嶺上に安置された。

 その後、あたりから湯泉が湧き出て、湯あみする人たちの病も癒えた。よって薬師如来の意向を尊び、湯薬師として篤い信仰を集めた。

 以来、この地を湯野と称するようになった。

 降って天平十六年(744)行基菩薩が聖武天皇の勅を奉り、虎睡山に堂宇を建立して薬師如来を安置、松岡寺と号したのが創まりという。

 しかるに、松岡寺は延応元年(1237)兵乱に罹れて、そのほとんどを焼失したが、薬師如来像は難を避けて麓に下り、その故地に堂宇を再建して東福院と改称した。

 その後の変遷を追ってみよう。

 嘉吉元年(1441)赤松満祐が、将軍義政を謀殺して播磨に走った。これを嘉吉の乱という。この時赤松氏追討の兵をあげた山名氏が、神辺城を築いたともいわれる。

 戦国時代に山名氏が衰えると、城主は細川忠興に代わった。はじめ忠興は大内義隆に属したが、のち尼子晴久に従ったため、神辺城下はこの両雄に翻弄されて、民衆は塗炭の苦しみに喘ぎ、領内の寺院も衰退の一途をたどった。東福院も例外ではなく、廃墟に至る寸前まで追い込まれた。

 延宝四年(1678)映遍上人が再建を発願するも、実現を見るまでには至らなかった。その志を映朝上人が継ぎ、正徳五年(1715)本堂を建立。近年に至り、再中興したのが先住の英応(恵海)上人である。大正二年と十五年に、荒廃の著しかった客殿と庫裏を改築。法嗣英海和尚も諸方を修復、営繕をして現寺構を整えた。

 

【信貴山の毘沙門天を勧請】

 本堂は、三間四面の宝形造りである。須弥壇に薬師如来立像を安置、縁起に聖徳太子作とし、いまも湯薬師の篤い信仰がある。

 毘沙門堂は、昭和五年に前住職の恵海和尚が創建、大和信貴山(朝護孫子寺)より御分身を勧請した。信貴山は用明天皇二年、聖徳太子が物部氏討伐のため、稲村城に向かう途中、当山で毘沙門天を感得、勝利したあと毘沙門天をまつり、「信ずべき貴ぶべき山」と命名された。わが国における毘沙門天信仰の根本道場であるが、東福院の前身である松岡寺とは、奇しくも創建の時期を同じくする。

 以来、東福院では檀信徒の福徳円満を祈念するため、毎月三日が縁日、正月三日を初毘沙門天大祭として、祈祷会が行われている。

 境内一隅に、石像の「首なし地蔵」をまつる。首がないのは神辺城の戦か、あるいは廃仏毀釈によるか、いずれにしても悲しい運命を担っていることに違いはない。

 四季の彩り豊かな境内には、西国三十三所と四国八十八カ所の御砂踏み霊場がある。寺宝に、源三位頼政が兵士を供養するため検討した素灯灯篭(承安元年作)、菅茶山の墨書(文化八年)、金島桂華の画がある。


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