薬師寺(真言宗御室派)

〒729-0111 広島県福山市今津町1352

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【御詠歌】

 照らします 今づ津のうら とこしえに

いよよ輝く 瑠璃のみ光り

 

【弘法大師開創の梵刹】

 福山市は芦田川を振り分けて、東部の福山地区と、西部の松永地区に大別できる。この中間に位置するのが沼隅半島で、突端に国指定名勝の鞆ノ浦がある。

 薬師寺は 、松永地区にある。

『沼隅郡誌』 によると、本尊は薬師如来、延暦二十三年 (八〇四) 五月、弘法大師が渡唐の途次、この浦に寄港して熊野三社を勧請、一山三箇の 梵刹を開創す。もって海上安全の祈誓をなす。故に山号を新熊野山と称す。本尊の薬師如来は、彫刻して安置せられしと伝う。

 その後の変遷を列記すると、 天文元年(一五三二) 九月に炎焼、 同十二年四月に僧尊涌が再興。

 寛永十九年(一六四一) 僧隆成が薬師堂を建立、万治二年 (一六五九)七月に僧成範が再建した。現今、建築の大部分はこれなり。

 享保四年(一七一九)僧観実が薬師堂を再々建。延享三年(一七四六)僧実印が護摩堂再建。宝暦十二年(一七六一) 四月僧実定が鐘楼門一宇ならびに梵鐘鋳造す。明治十三年 (一八八〇)僧智雲が梵鐘を再鋳。大正十四年 (一九二五)僧宏道、 客殿・庫裡を建立して現在に至る。

 その昔、 医薬に乏しかった時代、 高貴な人たちが病気になると、 薬師如来の功徳に頼り、病根を除く祈りを捧げた。これが薬師信仰の始まりでもある。つまり『薬師如来本願功徳経十二大願』のうち第七願がそうである。意訳すると、

「願わくば、われ未来世に菩提を得んとき、諸々の人びとに、急な病の迫りきて、救う人なく、帰られず、医者もおらず、薬なく、親族もおらず、家もなく、貧しさ窮り苦しむに、薬師如来の名号をひとたび耳にするときは、不思議や病苦は除かれて、身心ともに安楽に、家族や医者も具わりて、物みな豊かに足りぬべし。その上さらに、無上なる菩提の 道を証すなり。」

 奈良時代に、行基菩薩が四十九院を建立して薬師如来をまつったのも、ひとつには、人々の病苦を除く現世利益の祈りであったことは、確かなようである。

 

【今津の宿】

 縁起にいう一山三箇の寺院とは、東方院薬師寺、南方院金剛寺、西方院蓮華寺である。このうち金剛寺は、中古に薬師寺と合併した。

 慶長七年(一六〇一)神辺の宿と三原駅の間、今津村に間駅が設けられた。

 これを機に発展したのが今津の宿である。 江戸時代の文化六年(一八〇九)には、戸数も三百余軒となり、「商家も軒を連ねて一筋町をなす」と記すほどに栄えていた。

庄屋の河本屋に本陣を置き、山陽道を行き来する参勤交代の諸大名が宿泊した、その河本屋も、明治維新の百姓一揆で焼失、いまはわずかに門だけを残す。

 当時は蓮華寺も脇本陣として、諸大名の宿泊があった。本堂西側に構えた書院造りの客殿がそうである。上段の間には土佐派の絵を飾り、庭もすぐれて、大名の宿所にふさわしい造りである。

今津海岸の狐島に鎮座する社を剣大明神と敬う。剣状に突き出た岩を御神体とするこの宮は、松永地区の人々が篤く信仰していた。昔は満ち潮にのって詣でて、引き潮で帰ってくる。従って祭りには「潮間の市」と称して賑わたという。

 蓮華寺は、この剣大明神の別当寺であった。

 高台の境内は磴に鐘楼門がある。様式は竜宮門で、白壁と白塀が実に鮮やかである。


中国四十九薬師霊場会事務局

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