不動院(真言宗広島県教団)

〒732-0068 広島県広島市東区牛田新町3-4-9

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FAX/082-221-9990

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【御詠歌】

 やすらかに くにもゆたかに いのるてら

うごかずたえぬ のりのともしび

 

【安芸の安国寺】

 広島といえば、あの悲惨な原爆を忘れることはできない。 そうした中で、市街地を離れて建つのが幸いしたのか 、貴重な文化財を所蔵するのが不動院である。 正しくは安国寺不動院という。

 江戸時代の著『新山雑記』 によると、 僧空窓が開基したと伝えるが、 年代は不詳、 金堂に安置する薬師如来像が定朝様式であることから推して、説に平安時代とする。

 安国寺とは、 室町時代に足利尊氏が夢窓国師のすすめにより、戦乱に散った兵士の霊を慰めるため、諸国に建立したいわば官寺で、当時は臨済宗に属した。

 以来、安芸の安国寺としてまた守護職武田氏の菩提寺として栄えたが、戦国時代に諸堂を焼失して、祠に本尊をまつる有様であった。

 これを復興したのが安国寺恵瓊である。出生は明らかでないが、説に守護職・武田信重の嫡男であるともいう。やがて京都に上った恵瓊は、東福寺に住持して諸国の情報を収集、外交僧として活躍した。本能寺の変で信長が殺される十年も前に、こんな報告をしている。

「信長の代、五年三年はもたるべく候。明年あたりは公君にならるべく候かと見および申し候。さ候て後、高ころびに、あおのけにころばれ候ずると見え申し候。藤吉郎さりとて、は(覇)の者にて候」

安国寺恵瓊が、戦乱の世に登場するのは、天正十年(一五八二) である。豊臣秀吉が備中高松城を攻めたとき、毛利氏側にたって黒田官兵衛と交渉、城代清水宗治の切腹を条件に和議を整えた。

 この直ぐあとに本能寺の変が起こった。毛利勢のなかには、和議を破棄する意見もでたが、僧恵瓊が諫めて、輝元をはじめ両川(吉川と小早川氏) の起請文を差し出したのである。

 その後、毛利氏が豊臣秀吉の恩顧を蒙ったのも、僧恵瓊の働きに尽きる。

 

【大内文化の名残】

 やがて豊臣秀吉から戦国大名に取り立てられた恵瓊は、 六万石の大大名に出世した。 それも束の、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦に敗れて西軍は自滅。恵瓊も石田三成・小西行長らとともに六条河原で果てた。享年六十三であった。

 この以前、僧としても活躍した恵瓊は、文祿三年(一五九四)東福寺の二十四世住持となるが、秀吉の命に従い朝鮮 の役に出陣、大量の用材を持ち帰り、東福寺の庫裡などを改築している。

 不動院の楼門にも、垂木に「朝鮮木文祿三」と記す。また、籠居に坐す仁王像は、高さ二・八メートル、檜材の寄木造り、玉眼入りで胎内に永仁二年(一二九四)の銘がある。

 金堂は、大内義隆が周防山口に建立した堂宇を移建。桁行三間・梁間四間・一重裳もこ階し付き、入母居造り、こけら葺き、床に四半瓦を敷く禅宗様で、正面一間の通りを吹き放しにしたのも珍しいという。

 本尊の薬師如来坐像は、高さ一・四メートル、面相は円満、衣文は流麗にして、説に定朝様藤原時代の秀作という。朱塗りの鐘楼は、永享五年 (一四三三)の建立である。桁行三間・梁間二間・重層袴腰付き、入母屋造りで、こけら葺きの構えに高麗鐘をつるす。以上が、国指定重要文化財。

 この他に、新山安国寺不動院由来、新山安国寺不動院雑記、恵瓊の書状、豊臣秀吉の文書、毛利氏文書などを所蔵。不動院と改称したのは、福島正則の代に住持した僧宥珍である。このとき宗派も改めて真言宗となるが、福島氏が改易になったあとは浅野氏の菩提寺として栄えた。


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