國分寺(真言宗大覚寺派)

〒720-2117 広島県福山市神辺町字下御領1454

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【御詠歌】

 國分寺 大悲のちかい 昔より

今にかわらで とうとかりけり

 

【聖武天皇の発願】

 神辺町の歴史は古く、大化改新後に、備後地方における物資の集散地として栄えた。

 その昔、国分寺が置かれたところは、政治・経済の中心地であった。備後の国分寺は、『全国寺院名鑑』にこう記す。

 天平九年(737)聖武天皇の勅願により建立。天文十九年(1550)舜洪上人が再建したが、延宝元年(1673)大洪水で流失。元禄七年(1649)快範上人が、領主・水野勝種公の庇護を得て本堂を再建、同十年に客殿を建立した。天平の古瓦多数を所蔵する。

 国分寺とは、奈良時代に、国ごとに建立された僧寺・尼寺の官寺をいう。説に天平十三年(741)聖武天皇の発願によるが、創建には諸説がある。天平九年(737)三月の条に、「国ごとに釈迦仏像一躯、挟侍菩薩二躯を作り、兼て大般若経一部を作らしめよ」とする。

 これに対して、天武天皇十四年(685)三月には、「諸国の家ごとに仏舎を作りて、乃ち仏像及び経を置き、以て礼拝供養せよ」とある。

 天平十二年(740)七月の、国ごとに『法華経』十部を写して、七重塔の建立を命じた時とする。

 つぎに同年九月の、国ごとに高さ七尺の観世音菩薩像一躯を作り、『観世音経』十巻を写すよう命じたとする説もある。

 国分寺を建立するに至った構想は、天武天皇の護国教典の受容、聖武天皇及び光明皇后の仏教信仰を背景にした政治的、社会的な理由によって勧められた。その中心が奈良の東大寺であった。

 その内容は、各国に七重塔一区を建て「金光明最勝王経」「妙法蓮華経」各十部を書写せしめて、さらに聖武天皇自筆の金字の『金光明最勝王経』一部を塔ごとに安置する。

 僧寺は、「金光明四天王護国之寺」と称して、二十名の僧侶と封戸五十を施入。尼寺は「法華滅罪之寺」と称して、十名の尼僧を置き、毎月八日には『金光明最勝王経』を転読。また月の半ばには戒羯磨(受戒の時本尊に告げる文)を読誦、六斎日には殺生を禁止して、国家安寧・五穀豊穣を祈願させるというのが趣旨であった。

 

【法起寺式の伽藍配置】

 往時は、七堂伽藍を構えていた。

 近年の発掘調査により、南大門・塔・金講堂・築地跡などが確認された。その結果、法起寺式の伽藍配置を有し、寺域は四百八十メートル、寺領百余貫、子院十二を構えていたが、天文七年(1538)兵火によって焼失した。

 ときに神辺城主・杉原盛重が寄進を募り、天文十九年(1550)これを復興して寺領二十貫を付したが、慶長五年(1600)福島正則の入封に伴い、寺領は悉く没収された。

 降って、延宝元年(1673)大原池の堤防が決壊して流失した。福山藩主・水野勝種が神辺網付山の木材を寄進して、元禄五年(1692)快範上人が薬師道を再建。元文五年(1740)道海上人が仁王門を建立した。

 旧山陽道沿いに「國分寺」の石碑がある。百八十メートルの松並木の奥に十二脚門を構え、籠居に仁王像が坐す。そこに「國分寺」の扁額を掲げるのを見て、歴史の重みを痛感する。

 現堂宇は、大寺のそれとは異なるが、天平の甍を彷彿とさす。他に鐘楼・六地蔵道・石塔・客殿・庫裏などがある。


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