徳雲寺(曹洞宗)

〒729-5452  広島県庄原市東城町菅751

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【御詠歌】

かきおきし のりのことばの つきぬみち

おいきの松に たたへてそしる

 

【藍婆鬼済度の伝説】

 中国山脈の中心部に位置する東城町は、「比婆道後帝釈国定公園」の、広島・鳥取・島根県の三境にまたがる東の玄関口である。

 この地は、戦国時代に宮氏が五本竹城を構えたことに始まる。天文年間(1532~1555)宮景盛が大富山城(西城)を築いて移ると、五本竹城は俗に東城と称した。

 徳雲寺には、藍婆鬼済度の伝説がある。

 縁起と沿革について、寺伝は次のように記す。

 ときの領主・宮政盛が、覚隠永本禅師に深く帰依して、父教元の供養及び国土安穏・民心安寧を願い、文安三年(1446)起工、長禄元年(1457)まで、十二年の歳月を要して七堂伽藍を建立。寺領三百五十石を付した。以来、数多の修行僧が掛錫して、禅風はつとに熾盛した。

 ことに四世仏頂堅眼禅師より八世大奥鉄通禅師に至る百年間は、五代にわたり、勅特賜紫禅師号を下賜せられ、勅使下向の栄に浴したことは、比類なきことである。

 しかるに、九世天庵和尚の代・文禄三年(1594)焼失す。再建後の慶長十八年(1613)再度の火災に罹れた。

 その後、広島藩主・福島正則が寺領を没収、殷賑を極めた寺運も衰退の一途をたどり、浅野氏の代に庇護を得たが、文久年間(1861~1864)藩政改革をもって、寺院の経営は檀信徒に委ねられた。

 さらに、元文三年(1738)鳳山和尚のとき三度目の祝融にあって烏有に帰したが、近年に営繕を施して面目を回復した。広凡な境内に二十余棟の建造物がある。

 

【鬼臼と諸堂】

 孝徳天皇の御代(645~654)雲州杵築(現出雲大社)初現の世に十鬼あり、そのうち藍婆鬼という鬼神がここに住み、自在に出没して良民を悩ました。

 これを聞いた覚隠禅師が、はるか防州より来て錫をとどめ、石上に坐禅すること数日、ある夜に鬼神が現れた。禅師はこれを済度して仏教に帰依せしめると、鬼神は懺悔して自身の一角を折り、「乞い願わくば、この山に一寺を建立し給え」と告げて姿を消したという。

 その後、禅寺は山中から鬼臼を発見した。これを鬼臼峯と名づけ、一角を献じた故事により、当山に限って、角のない鬼字を丸の中に書いて寺紋とする。鬼臼は、現に本堂より約六百メートルの山中にある。

 勅使門は、第四世より八世まで、五代が禅師号をたまわったとき、勅使が下向のみぎり通用する。当初は二重の門であったという。

 現本堂は、寛政十二年(1800)再建したものであるが、その後に改修を加えて、昭和五十年に石州鉄砂瓦に葺き替えた。開山堂は、覚隠禅師および二世中興鼎庵宗梅大和尚の木像を安置。歴代住職の位牌、開基・大檀那・領主・浅野家に、尼子家臣・山中鹿之介の位牌も安置する。

 観音堂は聖観音を安置す。説に三国伝来の閻浮壇金仏像で、三十三年ごとに開帳を行う。備後西国観音霊場第二十二番札所。御詠歌は、京都大原にある梶井門跡の親筆という。

 この他に、弁財天社・禅堂・中雀門・衆寮・鎮守社・大山社・秋葉山・鐘楼堂・庫院・郷土館がある。境内には、蛇松池・石造五重塔・金剛塔・蓮華塔・開山の坐禅石・開基の腰掛石・みのりの松・山中鹿之介首塚などもある。


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