光明寺(験乗宗総本山)

〒722-2211 広島県尾道市因島中庄町749-3

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【御詠歌】

 因島 お山の薬師 渡りてぞ

法の灯照らし 衆生を救わん

 

【験乗宗の教え】

 はじめて因島を見たのは、三原港から伊予大三島に渡るときであった。そう遠い日のことではないが、光明寺を訪ねたのは、役行者小角のを徘徊していたときであ る。

 寺伝では、松浦観舜大阿闍梨が昭和初期に伊予の霊峰、石土大権現をいただく石土山石中寺の第六十八世住職・小笠原観念和尚から修験の法脈を伝承、もって宗教結社を組織したことに始まる。昭和十四年に宗教団体法により、天台宗寺門派の因島石土教会を設立。戦後まもなく、天台寺門宗総本山・園城寺(三井寺) の法灯を継承して、「光明寺」を創設するに至った。

 昭和二十二年十二月二十七日、光明寺を根本道場として、天台系本山派修験の一派「験乗宗」を立教開宗して総本山となる。

 験乗宗では、信仰の対象として神仏諸尊をひとしく尊崇する。「済世利人」を宗旨として、この宇宙の大自然を、自行化他の大道場と観じ、顕密二教を双修し、専ら真俗一貫の菩薩道すなわち修験道を実修実践して、この世に仏国浄土を顕現するのが基本理念である。

 本尊は大権現、脇侍に不動明王・神変大菩薩をまつる。鎮守はだ枳尼天、諸尊のなかに天台座主より請来した山の薬師が坐す。

 

【奥駈修行】

  法嗣は観伝和尚である。当時の旺盛な仏心は、いまも語り草となっている。師は道を求めて大峯奥駈に入峯。大峯奥駈とは、修験者にとって最も苛酷で、厳しい山中の抖薮行をいう。金峰山寺管長。五條順教師は、「大峰とは、吉野山一の坂より熊野音無川に至る七十五里(また七十五靡ともいう) に渉る山脈大行場の総称である。その峰中に七十五の行所(礼拝所・修行場)がある。これを巡拝していくのが大峰奥駈である」という。

 この奥駈けもいまは盛んになったが、観伝行者が人峯したころは途中の山小屋も壊れて、仮眠することすら覚束無かったという。また、観伝和尚は、旧制比叡山中学卒業以来、ずっと開祖に随身し、昭和五十年に光明寺の二世を嗣ぎ、さらに昭和五十三年から平成五年に、いまの験乗宗管長石田善心師に譲位するまで、 五期十五年にわたって同宗の三代管長職をつとめ、現在は教団の象徴として、後進の指導にあたっておられる。

 三世・恵観和尚は、幼名を観道という。昭和四十年に大浜小学校を出て比叡山へ登り、圓乗院住職・渡辺恵進師の室に入門。法名を「恵観」と改める。渡辺恵進師は、今の天台座主である。

 これより比叡山中学、比叡山高校を経て大正大学に入る。卒業後は比叡山に戻り、諸々の行法を修して、下山してきたのが平成三年の春である。

 ときに延暦寺より、緋紋白大五條袈裟をたまわった。平成八年十月に光明寺三世に、あわせて一宗の宗務総長の要職にあり、多忙な毎日である。

 水軍に興味を持ったのは、かつて平戸の松浦党を取材したときである。平戸松浦氏は、嵯峨天皇の第十八王子が皇位を下り、一 字姓「融」をたまわったことに始まる。以来、 一字姓を旨としたが、この融 の八代孫に久がいる。久は西下して松浦郡および壱岐を所領して松浦姓を名乗った。久は六人の子供に領地を与えて集団をつくり、海外交易したのが松浦党である。

 光明寺の法主は姓を松浦とする。あるいは先祖の血が遠く松浦党に及ぶのか。


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