〒683-0831 鳥取県米子市寺町50
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【御詠歌】
有難き 瑠璃のみ光 もろびとの
病いやされ 永遠に輝く
米子市が城下町として発展したのは、出雲の月山城主・吉川広家が、湊⼭に 居城を構築したことに始まる。
その後、鳥取藩の家老・荒尾氏が入封して、明治維新を迎えたが、城跡には本丸・天守閣・二の丸などの石垣を残す。
中世の城下町が寺町を構成したのは、城郭を防御する役目を担っていた。米子も例外ではなく、市街に大伽藍を構える寺院の中にあって、ひときわ目を引くのが安國寺である。
寺伝には、暦応二年(1339)創建、足利尊氏が開基。昔は西伯郡大寺村にあったが、足利氏の勢力が衰えるとともに詳細は不明となり、応仁二年(1466)端翁玄鋭和尚が中興し、曹洞宗に改宗した。その後、永禄八年(1565)毛利氏と尼子氏の戦いで兵火にかかり伽藍および古記録などを焼失。慶長五年(1600)中村一忠が米子入国の際、現在地に移転して再建された。
『伯耆誌』には、こう記す。
―伯耆国安國寺は、大寺にあって三千石を領して、六十の坊舎
を有する⼤伽藍であったが、永禄年間(1558~ 1570)江
美城攻略の際、尼⼦の敗将が安國寺にたてこもったとき、尾高
城主杉原盛重の率いる毛利方に焼き討ちされて、借しくも焼失
してしまった。
『秘仏・薬師如来』
安国寺は、南北朝の内乱に戦死した兵士の霊を慰めるために、将軍・足利尊氏とその弟・直義が臨済宗の僧・夢窓国師(疎石)の勧めにより、国ごとに一寺一塔を建立して、追善供養を行ったのが創まりである。康永四年(1345)勝利した北朝の光厳院は院宣をもって、これに安国寺利生塔の称号を与えた。現在、諸国の安国寺が手を携えて「安国寺会」を結成すると、開創の昔に立ち返り、無縁の霊を懇ろに供養している。
毛利勢の伯耆侵攻に際して、最後の砦となったのが江美城である。永禄八年(1565)杉原盛重・吉川元春の部将が江美城を攻めたとき、尼子と関係のない伯耆の人たちが、城に殉じて戦ったことは、当時の世人を驚かせたという。
一方で、『伯耆誌』会見群大寺村の条に、
-往古、当地に万寿山安国寺と号す大伽藍あり、本堂十二間四
面、所領三千石にて四十二の俗坊あり。足利尊氏の草創と伝う
。村名これに因るものなり。伝えて曰く、永禄八年(1565)
尾高城主杉原盛重は、日野郡江美城を攻めるとき、当寺の祖権
と云える僧、敵に与力して杉原勢を困らしむ。盛重、怒って諸
堂を焼払う。その後、この地に小庵を建て、焼け残れる薬師仏
を安置せしが、ついに米子に移って寺名を存すという。今田土
の経文鐘撞免などあり、また八幡村境内に経塚あり。坂中村普
門寺は当初奥之院なりという。
この記録からみて、安国寺が焼討ちに遭ったのは、僧祖権が抵抗したためだというが、寺伝によれば僧祖権の名はなく、また杉原氏に焼かれたのち小庵を建て、その後米子に移転したのは三世・章屋慧文であるとする。
現在、山門を入った右手に薬師堂がある。
そこに往時の薬師如来像を安置する。秘仏とはいえ、薬師仏が坐す。焼け残りの像というのは、焼失した御堂から験を発揮して、難を免れたという意味であろう。